前掲の東京新聞の記事に関連して、バルサHPより

日本サッカー史におけるバルサ

日本にプロとしてのJリーグが発足したのが、1993年5月15日。2013年に、20周年を迎えるが、当時は、野球、ゴルフ、相撲の三大スポーツに加え、若者に圧倒的な支持を受けての開幕だった。そのJリーグ初期の盛り上げには、FCバルセロナにゆかりの深い選手や監督も尽力し、Jリーグの発展に貢献し、日本サッカー史に足跡を残した。

カルロス・レシャック

1947年1月13日 バルセロナ生まれ。

愛称は、チャーリー。カンプノウが家から見えるベドラルベスに生まれ、12歳の時にはFCバルセロナに入団し、44年間に渡ってFCバルセロナの人生を捧げた、まさにFCバルセロナの歩く歴史であり、そのカリスマ性に誰もが一目を置く人物である。

トップチームの選手として17年間過ごしたが、決してスタメンから外れることがなかった。71年には得点王も手にしている。81年に34歳で引退した後は、監督の道を歩み、ドリームチーム時代にクライフがチームを率いていた時期は、その第二監督を務め、クライフとは8年間を共に過ごしている。

98年から、Jリーグの1部である横浜フリューゲルスに監督として就任。後にも先にも、FCバルセロナを離れたのは、この日本行きのみである。当時のフリューゲルスにバルサのように選手をユースから育てるシステムを構築しようとしたほか、3-4-3システムの導入など、新しいスタイルを試みた。    中略

日本からの帰国後、再び、FCバルセロナに戻り、ルイス・フアンハールが率いるトップチームのコーチスタッフとして務める。また、レオ・メッシの入団テストの際も、当時、ユースのコーチをしていたカルロス・レシャックが立ち会っており、メッシがボールを操るのを見てすぐに、その才能を見抜き、なんでもいいから紙にサインさせろ、というので、近くにあった紙ナプキンに契約する旨をサインさせた逸話は有名である。

アントニオ・デ・ラ・クルス

1947年5月7日 レオン生まれ

70年、グラナダFCでトップチームデビューを飾った後、FCバルセロナに移籍。有数の左サイドバックとして活躍した。1972年から79年まで7年間、在籍したFCバルセロナでは、スタメンの座を譲ることがなかった。ヨハン・クライフが選手としてFCバルセロナでプレーしていた時のチームメートである。

FCバルセロナで引退し、その後、監督の道を選んだ。1997年に横浜マリノスの監督になったハビエル・アスカルゴルタの第二監督として、日本へ行き、Jリーグの貢献に尽くした。当時の横浜マリノスには、フリオ・サリーナス、ゴイコエチェアなど、スペイン人選手もいた。翌年、アスカルゴルタの辞任を受けて、マリノスの第一監督に就任。99年まで采配を振るった。2002年、ルイス・フアンハールが率いるFCバルセロナのトップチームのコーチスタッフとなり、2003年にフアンハールが解任された後は、後釜にラドミール・アンティッチが決まるまで、第一監督としてチームを率いた。

その後も、日本人の青少年を相手にサッカーキャンプを定期的に行なうなど、日本との懸け橋的活動を続けていた。

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